チームラボ, 2004, 映像, 11min 1sec (Φ30m), 音楽:山口司&遠藤幸仁, Bamboo Flute:長尾ゆうたろう
TOKYO DESIGNERS WEEK、中央会場の直径30mに及ぶ巨大ドーム「TDW-DOME」にて、全長約100mの絵巻物語として、水墨空間が展開される作品。
「TDW-DOME」は、全天周の映像システムにより、プラネ タリウムのように空間全体を包み込む映像演出が可能。
[CONCEPT]
ふと迷い込んだ世界で、自分自身の「迷い」や「雑念」が表れたいろいろなモノたちと、対峙していくことにより、やがては、「迷い」や「雑念」が取 れていくという物語。
「むかしの日本の人々は、今とは違った風に世界を捉え、今とは違った風に世界が見えていたのではないか?具体的には、日本の古典絵画のように世界 が見えていたから、あのように描いたのではないか?つまり、日本には、西洋のパースペクティブとは違う空間認識の論理が培われていて、それが日本 美術から、現代のポップカルチャーまで生んだのではないか」という『超主観空間』というコンセプトのもとに、コンピュータ上にいったん3次元空間 を創り、その3次元空間内に創った物語をチームラボが考える日本の空間認識の論理で映像にした作品。
世界が水墨画のように見えるということは、どういう風に世界を捉えていたのか?
3次元空間上に立体的に構築された世界を、日本の先人達の空間認識を再現するように映像化するというプロセスの中で、その疑問が少しでも紐解ける のではないか、そういう風に思っています。
超主観空間
日本はすべて、超主観的。それは世界にとって、未来のヒントかもしれない。
社会、文化、文字、言語。日本はすべて、超主観的だ。それは、現代のポップカルチャー、特に、マンガ、アニメ、ゲームの物語のコンテキストから、ビジュアルまで、強く濃密に、わかりやすく表れている。そして、それは、ずっとずっとずっとむかし、日本の人々が今とは違うように世界を捉えていたころから、無意識に受け継がれてきているのだ。
観念的に空間を表現し、2次元的といわれる日本の美術表現。けれども僕らは、むかしの日本の人々には、空間が水墨画や大和絵のように見えていたのではないか、と考えている。現代人がパースペクティブな絵や写真を見て空間だと感じるように、むかしの日本の人々は、水墨画や大和絵を見て空間だと感じていたのではないか。観念的な絵だとか平面的な絵だ、とは思わずに。僕らは、それらの日本美術の平面には、西洋の空間を客観的に捉えたパースペクティブとは違う論理による空間が存在していると考えている。その空間を、僕らは、超主観空間とよぼう。
そして、もし、日本の平面に、違う論理による空間が存在するならば、それには、再現性がある。3次元空間上に立体的に構築された世界を、日本の先人達の空間認識を再現するように映像化する。そうすることによって、鑑賞者が映像の世界を客観的に観るのではなく、映像の中の世界と自分がいる世界が曖昧で表裏一体になるような新しい映像表現ができるのではないか。そして、その映像で空間を再構築したとき、空間の物理的な制約を越え、もっと身体的な体感になるのではないか。今回の展示は、そんな疑問への試みなのです。
かつて、人々は、もっと主観的に世界を捉えていた。にもかかわらず、まるで客観的世界観がすべて、といわんばかりに、主観的世界を分離してしまったのだ。
しかし、ネットが世界に張り巡らされ、人々は互いに直接つながり、自分の視点で発信し続けはじめた。それによって、永らく続いた客観主義に基づいた世界の捉え方は、行き詰まりを感じている。もはや、世界を、客観的な何か、で覆うことはできないのだ。
これからの超情報化されていく社会では、表現、科学、そして社会の秩序まで、客観的世界観に代わって、主観的世界観が必要なのではないか?
『「世界の正義」のために、戦争を始めることへの違和感』から、『写真で撮られた女性よりも、アニメ的に描かれた女の子の方が、よりかわいいと感じはじめていること』まで、それらは、きっと、つながっているのだ。
主観的世界を再現性があるものとして紐解いていくこと、そこには、未来のヒントがあるかもしれない。
水墨空間
西洋で発達した科学というものは、客観と合理性のみをその対象としてきた。主観的なもの、非合理的なもの、身体的なもの、好き嫌いの感情などは、科学からは長らく無視されてきた。それらは科学の取り扱うべきものではないとされたのである。その客観と合理性のみの追求の結果、西洋の文明は、他の文明を圧倒する成功を収めたが、21世紀初頭の現在、それは明らかな行き詰まりを迎えている。
私たちはこのように考える。行き詰まるのは当然である。なぜなら、実際に人間の生きている世界は、科学が無視した主観的なもの、身体的なものこそが、その9割程度を占めているからだ。それなのにその領域は、科学が無視してきたため、例えば芸術家やクリエイターの、個人的な霊感と努力のみに委ねられている。主観は、科学にとっては、未開拓の荒野として残されているのである。
主観は果たして科学の対象とならないのであろうか。そうではない、と私たちは考える。例えば日本画、その中でも例えば水墨画は、客観的世界とは大いに異なった、主観による極めて抽象的な表現だが、数々の優れた作品が存在し、多くの人が同じように感動する。感動に人を問わない共通性があるなら、そこには何らかの法則があるはずだ。法則があるなら、それは科学とテクノロジーによって、探究・再現が可能のはずだ。
こういう思考の元に、私たちは、水墨画の美を3DCGというテクノロジーで分析・再現することを試み、そしてこの作品という一つの結果を得た。
私たちは主張する。西洋の文明は行き詰まったが、科学そのものはまったく行き詰まっていない、主観という手つかずの沃野が、まさに目の前に広がっているのだ、と。つまりこの作品は「主観こそが現代科学の切り開くべきフロンティアだ」という、私たちの高らかなマニフェストなのである。
永らく続いた客観主義に基づいた世界の捉え方は、行き詰まりを感じている。ではどうやって世界を捉えればいいのか?客観主義による行き詰まりを乗り越えるヒントを、実は、我々の先代達は、持っていたのではないか?そう考えて、そこを模索してみようと思ったのが、このプロジェクトのはじまりである。
日本の先人達は、特有の美術表現で、3次元空間を2次元の平面に落としこんで来た。3次元空間を2次元に落とすということは、数学的に言えば、情報量を圧縮することである。西洋では、遠近法に代表されるように、客観的な法則で、空間を2次元で表現した。しかし、日本の先人達は、客観的な手法ではなく、極めて主観的な手法で、2次元平面に圧縮してきたように思えるのだ。その最も圧縮度合いが高いのが、墨絵であるように思っている。墨絵とは、そう、極めて、主観的な人間の力によって、究極まで、圧縮された空間なのである。
空間を主観的に圧縮したということは、そもそも人間は、世界を主観的に捉えていたことを、われわれの先代達は、知っていたのだろう。それが、いつのまにか、西洋の客観的世界観が、まるで全てのようになり、我々の世界は、頭で考える理性的客観的世界と体で感じる感情的主観的世界が分離し始めたのだ。過去に回帰しようと言うわけではない。全ての文明と科学の発展を肯定した上で、分裂した世界をもう一度、統合的なものにする、チャレンジなのである。
世界を人がどのように主観的に圧縮したのか、そもそも、そこまで圧縮された表現、大胆でかつシンプルな線で、そもそもなぜ、人々は、躍動感や、世界観を感じることができるのか、
そこに、一定の法則は、あるのか?
コンピューター上で作った仮想な3次元空間を、テクノロジーを使って、墨絵と感じるような美術表現を作るということは、その構造を知るヒントになるかもしれない。それは、従来の客観的視点に立って発展してきたテクノロジーへの新たなチャレンジである。
[EXHIBITION]
2011年『TOKYO DESIGNERS WEEK 2011』(明治神宮外苑、東京)
2010年『TOKYO DESIGNERS WEEK 2010』(明治神宮外苑、東京)



